秋A

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 ーー時間とは、すべてが一瞬に与えられることを防ぐものだ。遅れさせるものであり、むしろ遅れそのものだ。それゆえに、生成作用がある。その時、時間は、創造と選択を載せる器ではないか?時間の存在が、物の不確定性を証明しているのではないか?時間とは、不確定性そのものではないだろうか?
 晩年のベルクソンは、若き日の着想をそんな風にふり返っている。そのことを念頭に置いて、著作に接すれば、かれの哲学は生涯にわたって首尾一貫していることがよく分かる。
 たとえば、「創造的進化」という有名な著作がある。タイトルひとつ取ってみても、「進化」は時間を前提にしないと考えられないし、時間をベルクソン風に捉えるなら、必然的に創造と選択の問題に行き着くことになる。選択することが創造することなのだ。この著作の中で語られた「生の跳躍」は有名だが、「跳躍」は「選択」とほぼ同義だろうし、当然、「創造」とも同義になる。
 ハチやアリなどの昆虫類と人類と、進化のレベルはほぼ同等のように、ベルクソンは考えている。ただ、前者は本能、後者は知性によって進化した。つまり、前者は体に備わった機能によって、後者は知性がもたらした道具によって進化したというのである。本能と知性のどちらを選ぶかが、昆虫と人間の分かれ道だというのは、われわれには容易に理解しがたい面がある。科学は科学的理解がふつうなのに、それをベルクソンは哲学的思考によって踏み越えている。ただ、われわれが追いつけないのは、ある種の偏見のせいかもしれない。というのは、科学的思考がもたらす偏見や限界を、ベルクソンは初めからきびしく批判しているわけだから。
 ただ、当時最新の科学的知見に精通していたがゆえに、かえってその限界が明瞭に意識されていたにちがいない。ベルクソンほど科学的思考を深く突きつめた人は余りいないのではないか。
 物理や化学は、物を中心に科学すればいいのだから、まだやりやすい。しかし、生物となると、ましてや進化論となると、余りに複雑多岐にわたり、確たる方法論を、少なくてもベルクソンの生きた時代にはまだ獲得できていなかった。そこを哲学的思考によって補いながら展開されているのが、「創造的進化」であるといえるかもしれない。科学的事実としてはもう古い部分も、もちろんあるが、その根幹はゆるがないだろう。なぜなら、ベルクソンの説く時間、かれの用語に従えば「純粋持続」は、科学とは矛盾しないけれど、科学によってはとらえ切れないものなのだ。
 一昨年ノーベル賞を受賞した生物学者の本庶佑氏と物理学者との対話は大変興味深いものだった。
 ーー物理では、原因と結果は必然的に結び付いています、と、物理学者が述べたところ、
 ーー生物はちがう。偶然が入ってくると、と、本庶氏は応じている。
 「偶然」とは、ベルクソン風に表現すれば、「創造と選択」になるだろう。ベルクソンの思考は心理的なものとして受け取られがちだが、そこにとどまるものでは決してないのだ。

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